昭和56年8月16日 朝の御理解
                              明渡 孝

 御理解第68節『神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め』


 三代金光様のお言葉の中に、「信心には辛抱する事が一番大切でございます」と仰せられてある。一番大切なものは、だから辛抱する事だということになります。だから、どんなに素晴らしく教典の解明ができましても、いわゆる詳しくなりましても、ね、辛抱力がそれに伴わなかったら、いわゆる、ね、「その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と仰せられますから、身に徳を受けるということのためには、どうしても辛抱力をつくらなければいけません。ね。
 まあその折々、おかげは頂くにいたしましても、金光様のご信心、いわゆる天地金乃神様が教祖金光大神に願うておられる「神も助かり、氏子も立ち行く」という。ね。「神を助けてくれ」と言っておられるのですから、神を助けれるほどしの信心とは、ただ熱心に参っておりますから、拝んでおりますからというだけではいけん。
 そりゃそこに、なら辛抱し抜いてもです、ね、焦点を間違えたんではお徳にはならん。ね。「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と。これは昨日の朝の御理解でした。ね。
 私どもがまずはね、金を杖をつけばとか、木や竹は折れると仰せられるのですから、実に頼りないもの。ね。儚いもの。そういうものをまずは気付かしてもろうて、「そらもう、金があるから物があるから、私は健康だから」と。「私にはこの腕があるから」と、たとえ言うておっても、その腕が金が物が、ね、果たして頼りになるだろうか。いよいよまさかの時に頼りになるだろうか。
 いよいよまさかの時、いよいよの時には、神様を杖につくより他にはない、ということが分かり、それを信じさせて頂ける時に生まれるのが「神を杖につけば楽じゃ」というのです。その「楽じゃ」という心、そういう心で神様を助ける働き。ね。
 「神を助けてくれ」と教祖金光大神にも言うておられます。同時に、なら御理解三節にも今申しますように、ね。「神も助かり」ということ言うておられる。ね。そこに氏子の立ち行く道は必ず開けるんだと。だから、信心辛抱さえしておれば、という、ただあの、いうなら何と申しますか、小学生なら小学生の時に習うた勉強をです、それが良いというような考え方ではいかん。小学校が出たら中学にも高校にも、いうならば真実を求めて、より真実なことを求めての、ね、より真実な信心になっていこうとする意欲が信心には要るのです。これでよいということはありません。
 それでいて、いわゆる「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ」と仰せられる。そういう間違いの中に、求道の心、止むに止まれんその心に、しかもそれを分からせて頂くことが、ありがたくて楽しゅうて、というところに、例えば辛抱し抜く力というのは生まれてくるのです。ね。
 いかに、合楽理念が助かりの理念だというても、ね、私、辛抱力がこれに伴わなかったら、それはどんなに、ね、論理的に言うて、なるほど素晴らしい、まあ昨日の御理解で言うならば前代未聞。かつてこういう宗教があっただろうか。それをここでは、和道十全と言ってる。ね。
 いうならば、その和道十全というのは、人間がいよいよ人間らしい生き方をさせて頂きながら助かっていく道、ということなんです。何の支障も差し支えもない。ね。
 たくさんな宗教、歴史を持った宗教、大きな宗教があります。けれども、必ずしもそれが和道であっても、教えというものは、どこでも悪い教えはありません。だから和道に間違いないけれども、十全ということはない。ね。
 教祖金光大神が、天地金乃神様より受けられた、もうこれがまさにほんとうの宗教だと。宗教とは、宇宙の「宇」という字です。ウ冠に示すとある。宇宙が、いわゆる天地が示したそれを教えるのがほんとの宗教なんだ。ね。
 教祖金光大神の信心は、天地金乃神様からの直伝である。「この方が天地金乃神様より、おかげを受けたことを話にして残しておく」と仰せられる。その話があまりにも、いうならば難しい。金光教の信心は、大きくて広くて深い。ね。だから、いっぺんどりここ、「ああなるほど」と言うたのは、ちょうどそれは、小学校卒業した程度のもんじゃないでしょうか。
 いよいよ深めてまいりゃ限りがないですけれども、現在合楽理念で説かれるところの、いうならば教えというものは、なるほど、宗教以前の宗教だというふうに言われたり、ね。前代未聞というふうに言われる。確かに前代未聞の宗教である。しかもそれは、和道というだけではなくて、十全である。ということになります。
 だから、合楽理念のマスター、そしてそこに信心辛抱力をつくる。辛抱力をつくっておるうちに、その辛抱が辛抱でなくなってくる。例えば朝参りなら朝参りでも、もうそれこそ眠いけれども、寒いけれども、暑いけれどもお参りをしてくる。そうしていくうちに信心辛抱の徳が付く。ね。「それが身に徳を受ける修行じゃ」とここでも仰っておられる。ね。
 だからもう、そのいうなら信心がですね、楽しゅうなってくる、ありがとうなってくる。しかもよりほんとなことが分からして頂くことのありがたさ、というものが身に付いてくるために、限りない精進と、限りない求道の心というものがなからなければいけない。もちろん、金光教の信心には、分かれば分かっただけのおかげが大きくなってくる。広く深く分かれば分かるほど、おかげの世界も広く深くなってくる。ね。
 私は、この六十八節は、ここんところの、いうなら辛抱力をつくるという、いわゆる辛抱力から、辛抱の、信心辛抱の徳を受けるということ。ね。これは、三代金光様がご自身が、ね、それこそまあ、過去宗教会に様々な宗教家がおりましたけれども、ね。このような、いうなら信心辛抱をなさった方は、もうまたとあるまいと思われる。ね。
 ご自身がこの信心辛抱の徳を身に受けられて、始めの間は、辛うて辛うてよう泣いた。けれども、親様の言われることであるから、座っておれば楽じゃと仰せられたから、それこそ楽ではなかった、それこそ泣く泣く辛抱であった。けれども、その辛抱しておいでられるうちに、ね、親様のお言葉、神様のお言葉っていうことはそんなに尊いもの。それを辛抱し抜いておるうちに何が生まれたかというと、我情が取れて我欲が取れた。
 それをどういうふうに言っておられるかというと、ね。思うこともなくなり、我情がなくなられた。欲しい物もなくなり、我欲がなくなられた。そして残るものは、ありがとうてありがとうて、そういう、いうなら、ああいう一日の御用をお勤め下さる。その中にです、ほんとにしるしゅうてというものがなくなられて「ありがとうてありがとうて」と言っておられる。
 しかも、そのありがたいというお礼の足りないお詫びばかりしておる、と。もう金光教の信心の極めたところの言葉だと思うですね。私どももそれを思います。これほどしのおかげを頂いて、どんなにお礼を申し上げてもお礼を申し上げても、そのお礼の足りないお詫びばかり、という世界です。ね。信心辛抱の徳がね、そのようなおかげにも働きにもなってきたんだということです。
 合楽の場合は、合楽理念。こういう場合、合楽理念をもってするならと、まあその気になると、誰でも楽しゅうありがたく、ね。しかも、そこに実験実証を積みながら実証していけれる。いうならば、私どもの生き方、絶対間違いのない、いうならば字引きを引くようなものである。合楽理念を紐解けばすぐ分かる。ね。
 ということをです、お互いが体得し、分からせて頂いても、それに信心辛抱の徳が伴わなければ、ほんとうのおかげにならない。いわば楽になれない。「神を杖につけば楽」と仰せられる。ね。そこからね、そこからの世界。どういう世界かというと、神を助ける働き。ね。
 神様が助かるとありなさるのだけれども、神を助けてくれる者がない。それを、いうならば金光大神に神頼みになられた。金光大神は、そのことをお道の信奉者に教えられた。ね。
 ところが、神様を助けるということは、どんなことだろうかと分からない。もちろん、私ども一人一人が助かるということは、神の願いでもあるのですから。ね。それは神様も助かって下さることになりましょうけれども、神の悲願とでも申しましょうか。ね。悲しいまでの願いというものは、そんな生易しいものではない。「私だけがおかげ頂いとればそれで良い」というのじゃない。ね。
 私ども、その神の悲願をね、神の願いを少しずつでも分からしてもらう。ね。それこそ、神様が手を付かんばかりにして「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」とこう仰っておられる。ね。おかげを受ける。ね。
 信心は、人間氏子でなからなきゃできんのだ。どんなに素晴らしい神徳がそこにあったにしても、その神徳を与えれるのは、牛や馬に与えるわけにはいかんのだ。やっぱり、人間が信心しておかげを受けてくれる。人間にしか与えられない。
 というて、なら人間だから誰にでも神徳を与えるわけにもいかない。ね。その気になって願う者、その気になって修行する者の上に神徳は与えられる。ね。その神徳をもってわが身は楽じゃというなら、信心が頂けた時に、ね、始めて神様の願いに応えられることができる。
 信心というものは、好きだから嫌いだから、といったようなことではない。信心の稽古をというのは、始めの間は、おかげを頂かねばならんから、まあお参りもした、信心もした。そこから、だんだん分からして頂いて、ね、好き嫌いでするのではない、もうそれこそ、誰しもが神様の願いを受けて、その願いに応え奉っていけれる信心を身に付けさして頂こう、という絶対の焦点。ね。その焦点を目指して、雨が降るから風が吹くからじゃない、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。
 人間の、いうならば精進、辛抱の徳と、ね。人間にしか与えられないところの信心。人間にしか与えられないところのご神徳というものが、ね、信心辛抱の徳によって現れてくる。現すことができる。まあ神を現すというふうに申しますが、ね。その「神様を現して行く」ということが、ね、神を助けるということにもなるのです。
 そこには、人間氏子の立ち行きは、神様が引き受けて下さる。神も助かり氏子も立ち行く。どんなに合楽理念が素晴らしいというても、これに信心辛抱の徳が伴わなかったら、ね。どんなに素晴らしい教えであっても、それは大した役には立たない。いわば大した役、おかげは受けられても、神様が下さろうとするご神徳を頂くことはできない。
 もう金光様のご信心はね、全信奉者がみんなご神徳を受ける。ね。御理解二節ですか、にありますように、「信心すれば誰でも神徳が受けられる」と仰せられておるのにもかかわらず、神徳を受ける人っちゃ極まれであるということ。どういうわけだろう。ね。
 なるほど信心辛抱もしよるけれども、焦点を間違えてるということになるじゃないでしょうか。合楽では、その焦点が、絶対のもの、間違いのないものに、を教導して頂けれる。ね。そこからの稽古は、また限りないことですけれども。ね。
 三代金光様のお言葉から言うと「信心には、信心辛抱することが一番大切でございます」というものを、いわゆる大切として、そして、教えの大切。いわゆる、まあ合楽では、合楽理念をいよいよ広く深く分からしてもろうての日々。そういう信心でありたいと思います。また、そういう信心を願わなければならないと思います。
 信心には、転身が大事です。小学生の時に覚えたのを、いつまでも「これがほんとうだ」というような考え方、そういう傾向が非常に金光教には強いですね。「よりほんとうだ」ということ。例えばならここで、祈念詞、天津祝詞、大祓から今日の、まあ私は、この講習がありましたその翌日から切り替えさしてもらった。ね。
 私は、そのことを神様にお届けさして頂いておりましたら、「朝顔は、馬鹿な花だよ、根もない竹に、命までもとからみつく」という面白い詩があります。その詩の文句を頂くんです。ね。天津祝詞とか大祓とかとは金光教とじゃないちゅうことは分かってる。ほんなもんじゃないことが分かってるけれども、百年間それをやってきた。
 ところがここでほんとうなものが、いうならば仮にできた。しかもそれを読んでみると、読んでみれば読んでみるほど、なるほど金光教とは偉大だ素晴らしい。その翌日からこのことに、私どもは、いわゆるより真実なことが分かったら、それに転身していくということがね、大事です。
 今まで思い込んでおったことよりも、例えばなら合楽で頂いた今日の御教えのほうが本当だと分かったら、それにスキッとこう切り替えていけれる、ね。転身の妙とでも申しましょうか、ね。でなかったら信心は向上いたしません。ね。金光教の大発展のためにも、いよいよより教祖金光大神の教えを深く広くすることのためにも、ね。私どもが「確かに金光教の信心は、和道十全だな。前代未聞だな」それが確信できれる信心を頂きたいですね。どうぞ。